【京都市上京区】秀吉は自分に対する京の人々の感情を知りたがっていた? 大イベントが1日で打ち切りとなったのは? 今も残る謎。
茶道の世界では、秋に新茶を味わう季節を迎えます。立夏の頃に摘み取られた茶葉は、蒸し、乾燥などの工程を経て茶壷に保管され、秋になってようやく味わうことができるのだとか。
堀川寺の内上ルの裏千家センター内にある「今日庵 茶道総合資料館」でも、2021年9月15日から12月5日まで、令和三年秋季展「新茶を祝う 製茶から口切の茶事まで」が開催されています。また、伊藤園は、2021年10月1日「日本茶の日」にあわせ、日本茶の魅力を世界に届ける「日本茶の日 オンラインイベント」を開催しました。さて10月1日には意味があります。
京の都へ上洛し、天下をほぼ手中に収めた豊臣秀吉は、九州平定と聚楽第の竣工を祝って、天正15年(1587年)10月1日、北野天満宮にて大茶会「北野大茶湯(きたのだいさのえ)」を催しました。「茶の湯熱心のものは、若党町人百姓以下のよらず来座を許す との布令を発したため、洛中、洛外より集まり来る者限りなく、北野付近は時ならず一千人の人出で賑わいを呈した」(上七軒歌舞会記より)と伝わります。
建てられた茶屋は800あるいは1500とも言われています。なぜか、10日間の予定が実際には 1 日で打ち切りとなったのは、今でも諸説あり謎ですが、開催については、秀吉に対する京都人の感情を知る試金石であったといわれています。
北野天満宮の参道ともなっている上七軒は、京都五花街のなかでも最も古く格式のある花街と言われています。室町時代、北野社殿(今の北野天満宮)が一部焼失し、時の十代将軍・足利義植は所司代・細川勝元に命じて、社殿の造営をさせました。その際、社殿御修築の残材を用いて、東門前の松原に七軒の茶店を建て、参詣諸人の休憩所としたので、七軒茶屋と称したのが上七軒の由来です。
北野大茶会の際、この七軒茶屋を、秀吉の休憩所に充て、名物の御手洗団子を献じたところ、秀吉はいたく賞味に預り、その褒美として七軒茶屋に御手洗団子を商うことの特権と、山城一円の法会茶屋株を公許したのが、我国に於けるお茶屋の始まりであると伝承されています。 上七軒の花街が、五つ団子の紋章を用いるのもここに由来します。
北野天満宮には、茶会の遺跡として、秀吉が茶の水としたという「太閤井戸」が残されています。行かれた際には、ぜひ上七軒を通り、北野大茶会の遺構も目にして、歴史ロマンを感じてみてください。
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