【京都市上京区】秀吉の京都大改造に迫る。京の都を守る防波堤。街を囲んだ寺院と御土居とは?
北野天満宮の手水が2021年8月から花玉手水に代わっています。
さて、北野天満宮の拝殿から西側の門をくぐると、境内の西側には御土居の史跡が広がっています。安土桃山時代、東は鴨川右岸、北は鷹が峰、西は紙屋川左岸、南は九条通で、全長22.5kmに及ぶ広がりを見せました。この築堤を「御土居」または「土居堀」と呼びます。
豊臣秀吉は京都を抑えるとすぐにも、妙顕寺城や仙洞御所造営、聚楽第、京大仏の建設、天正の町割りをはじめ、京都の大改造に乗り出しました。その一つが、寺町通と御土居の建設です。この時代の京は、上京と下京が町になっていました。それぞれが組に分かれており、塀などで囲われていて、通り筋に当たる場所には木戸の門が設置され、惣構が形成されていたのです。一町ごとに、塀に突き当たるような城塞状態でした。秀吉は、それをすべて取り払い、都全体を囲ったのです。
北は寺の内通り、東は寺町通りを造り、主に法華の寺を移転させ、防波堤とします。諸説ありますが、陰陽道に基づいて、鬼門を固めたとも、端っこに寺社を固めると京の町を攻めにくいと考えたとも。では、西と南はどうしたか。治水のためもあって、この御土居と呼ばれる堀と土塁の堤防、いわば日本版万里の長城で取り囲んだのでした。
江戸時代と明治維新で取り壊され、現在は市内十数箇所に跡が残るだけとなっています。北野天満宮の御土居は近年整備され、紅葉の時期には、御土居の紅葉として親しまれています。北野天満宮の北門を出たところに石仏が奉られていますが、この石仏は、破壊された御土居から掘り出されたものです。 御土居もロケ地によく使われます。現代の事件ドラマなどでもよく遺体があったりするのはここです。
秀吉は、この北野天神の松原に於て大茶会を催しました。有名な北野大茶湯(きたのだいさのえ)です。京都人の気質を知るためであったとも言われています。「茶の湯熱心のものは、若党町人百姓以下のよらず来座を許す」 との布令を発したため、洛中、洛外より集まり来る者限りなく、北野付近は時ならず一千人の人出で賑わいを呈したと伝わります。
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